幸せ、はるかに

 94年の6月−−− 私は母性看護学の実習で、産科病棟に行くことになったのでした。私は男性、産婦は当然女性。産婦の看護では分娩にも立ち合うため、少々不安や緊張もあったのでした。しかし実際に実習を始めてみると、それは杞憂だったのでした。
 私が受け持ったのは、Sさんという30近い産婦さんでした。彼女は小柄でぽてっとした鼻をしていて、愛敬があって、いつもほのぼの明るい人でした。お蔭で、私もほのぼのと実習できたのでした。そんなSさんでしたが、その明るさの陰には苦悩の日々があったのでした。Sさん夫婦は、数年の間不妊に悩まされ、子どもに恵まれずにいたのです。
 今回の妊娠は、自然な妊娠は望めないという事で、AIH−−−夫婦間体外人工受精を行っての妊娠でした。Sさんのおなかの中の子どもは、Sさん夫婦の卵子と精子を実験室の中で受精させ、再び母体に戻して生まれた、いわゆる試験管ベビーだったのです。
 そのことをカルテから知った時、Sさんの人柄のお蔭でのんびりしていた私の気持ちは、一気にぴーん、と張り詰めてしまったのでした。何年も待ちに待って、最後の手段の人工受精を繰り返し、ようやく授かった子ども。その子に何かあっては、一大事・・・ とは言っても、明日あさってに分娩を控えた今となっては、看護学生の私にできる事など大してありません。Sさんも見た目は落ち着いて、のんびりしたものでした。妊産婦は病人ではないので、看護者が日常あれこれ手を貸す必要もありません。本当は授乳に備えて、母乳の出を良くするための「乳房マッサージ」を指導するべきなのですが、さすがに私がお乳をもむのは気が引けて、後送りにしていました。結局、分娩まで大した事はしないまま、時間は過ぎていったのでした。そして、その日は予定通りにやって来たのでした。

 Sさんの分娩日は、ちょっと晴れた穏やかな日でした。私が実習していたK病院では、「計画麻酔分娩」という分娩方法をとっています。それは、陣痛が自然に来るのを待つのではなく、陣痛促進剤を点滴して決めた日に計画的に陣痛を誘発します。そして陣痛が来て分娩が始まると、麻酔を使って痛みを和らげる、というものなのです。ですから、この日にSさんの子どもが生まれることは、何か不都合が起こらない限り変わらない、確定された事なのでした。

 朝8時に産科病棟に着くと、私は直ぐにSさんの部屋へ行きました。その時すでに彼女は身仕度を済ませていて、待機室へ行くのを待つばかりでした。私は彼女の血圧と脈拍を計り、意識して普段の様に「少し後でまた来ますね」と声を掛けてから、身仕度をしに職員控え室に向かいました。そこで水色のユニフォームから青い手術衣に着替え、青い帽子をかぶり、水色の後ろ合わせの感染予防ガウンを着て、私は全身青ずくめの姿で産科病棟へ戻りました。そして慌ただしく用意を済ませ、再びSさんの所へ向かったのでした。
それから9時少し前に、水色のごわごわした産婦用ワンピースのSさんと青ずくめの私は、分娩待機室に移りました。そこはベッドが5,6床あるクリーム色の部屋で、分娩監視装置が枕許で表示管を光らせていました。分娩監視装置は陣痛の強さと胎児の心拍数を計測し表示する機械で、母体と胎児の状態が安全かどうか知るための物です。別に苦痛をもたらす物では無いのですが、その存在はやはり部屋の雰囲気を硬くしているようでした。そこでベッドに横たわり陣痛を待つ産婦達は、天井を見つめ、あるいは目を閉じて、迫り来る刻への希望と不安に身を任せていました。廊下から小さく聞こえるBGMのクラシックがそんな中で、部屋の機械と青ずくめの助産婦達の威圧感を、心持ち和らげていました。そして部屋に入ったSさんは入口のすぐ奥のベッドに横たわり、私はその傍につきました。それから腰に麻酔薬が細いチューブで注射され、陣痛促進剤の点滴が始まり、Sさんの分娩が始まったのでした。

 Sさんはとても小柄でしたが、胎児の発育は人並でした。そのため、CPD−−−児頭骨盤不均衡の危険も考えられていました。CPDとは、母親の骨盤が胎児の頭に比べて小さいことを言います。胎児は骨盤の中心の穴を通って生まれて来るので、CPDは胎児が引っ掛かって骨盤を通れない可能性を示唆しているのです。従ってSさんの分娩は、難産になる可能性もあったのでした。
 とはいえ、「案ずるより生むが易し」とも言うように、それはまだ単なる可能性でしかありません。とりあえず、次々押し寄せてくる陣痛を受け止めるSさんを、見護り励ますことが先決でした。と思ったのですが−−−下半身に効いた麻酔のお蔭で、ほとんどSさんは痛みを感じていないようなのでした。
「全然痛くないの」とSさんは言いました。 麻酔分娩と言うと、全く痛く無いように思われがちですが、実際は麻酔があまり効かずに痛がる産婦もいます。しかしSさんは幸運にも、麻酔が良く効いていたようでした。

 しかし、良いことばかりは続きませんでした。お昼も過ぎた頃、私の目は分娩監視装置の吐き出す記録テープに止まりました。陣痛の強さを示すグラフの山が、段々低くなっていたのです。
「微弱陣痛ではないか?」と私は考えました。私は助産婦養成過程の授業を受けていたので、グラフを判読できたのです。陣痛は、子宮が胎児を押し出そうと収縮するために起こります。その陣痛が弱くなるという事は、胎児を押し出す力が弱くなる事になります。それが微弱陣痛で、難産の兆候なのです。すぐに私は看護教員にそれを伝え、確か陣痛促進剤の点滴が増やされて、何とか陣痛の強さは持ち直したのでした。そして2時半近くになって、ようやく子宮口全開大−−−子宮の出口が完全に開き、胎児が通過可能になったのでした。いよいよ分娩のクライマックス、子の誕生の刻が迫って来たのです。
 しかし、ここへ来て新たな問題が発生してしまったのでした。胎児の回旋異常が起こっていたのです。胎児は骨盤の穴を頭から、体を回しながら通り抜けて来ます。この胎児の回転を回旋と呼び、正常な場合は、始めは顔を母親の背中に向けて、途中横を向いてまた背中を向いて、というように回旋します。ところがSさんの胎児は始めの時点で、いつの間にか母親のおなかを向いてしまっていたのです。それでは頭がうまく骨盤を通れず、難産になってしまいます。自然に正常な回旋状態に戻ることもあるのでしばらく様子を見ていましたが、その気配はありません。その間にも時間は刻々と過ぎていきます。Sさんが疲れてくれば、また微弱陣痛になりさらに難産になりかねません。担当医師は意を決し、分娩室への移動をスタッフに指示しました。そしてSさんはストレッチャーに乗せられ、私と数人のスタッフに送られて、分娩室に移ったのでした。

 Sさんが分娩室に入った時は、確か3時過ぎでした。私は黄色い分娩台の、少し起こした背もたれの脇に陣取りました。Sさんは緊張した面持ちで、天井を見つめていました。やがて用意が整い、助産婦が声を掛け、Sさんがいきみました。
「もっと強く、いきんで!」
 二度、三度。背もたれの脇の握りを握るSさんの拳が白くなり、小刻みに震える腕に引かれてSさんの上体が起き上がりました。顔が赤鬼のように真っ赤になり、力尽き、またいきむ。それでもまだ、胎児はうまく出て来ません。回旋異常とCPDが、やはり影響しているようでした。
「バキュームかけてみるか」
 教授が吸引カップをわずかに現われた胎児の頭に当て、吸引分娩を試みました。しかし数度の試みも失敗でした。胎児は骨盤に引っ掛かり、出て来ません。そのうち胎児の心拍数が低下してしまいました。狭い骨盤に閉じ込められ、胎児は危険な状態に陥っていました。教授は大きなかん子を持ち出し、胎児の頭を掴みました。それでだめなら帝王切開、最悪の事態も考えられます。助手の医師が分娩台に飛び乗り、Sさんがいきみ教授がかん子を引くのに合わせ、おなかを押します。
「がんばって!」
 私も誰かも、たまらず声を掛けました。
 そして五回目にいきんだ時−−−赤い小さな体が、Sさんの開いた太股の間から滑り出したのでした。助産婦が子どもの口からチューブで水を吸い出して、数秒後−−− 元気なうぶ声が、分娩室に響き渡りました。
「おめでとう!」
 誰からともなく、拍手が沸きました。
 刻は4時半。この世に一つきりの、大切な命がまた一つ、生まれたのでした。

 94年、夏−−−
 私は男子に助産婦国家試験の受験資格が無いため、助産婦養成過程選択をスポイルされてしまいました。それでSさんの分娩は、私が立ち合った最初で最後の、生命誕生の瞬間になるかも知れなくなったのでした。
「ハルカ・・・!」
 分娩室の外の廊下のベッドで迎えを待ちながら、子の名を呼ぶSさん。その幸せそうな姿が今も私の心に、6月のその日の柔らかな陽差しと共に甦ります。はるかに遠かったSさんの願い。それは今はその胸にいます。
 私が立ち合い出会った、大切な瞬間、大切な生命。願わくば贈りたい、この世のすべての幸せ、はるかに−−−

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