さくらの花の散るように

〜神経内科病棟から

 −−−ぼくらはみんな生きている。
 生きているから、嬉しいんだ。

 でも、もしも・・・
 「生きること」が嬉しくない、
 そんな時が来たら、
 そしてそれが
 この先一生、続くとしたら・・・

 何千分の1、あるいは
 何万分の1という確率で人を蝕む、
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)・
 パーキンソン病などの神経難病。
 それは脳神経系が機能を失い、
 体が思うように動かせなくなり、
 やがて多くは
 正常な意識と知能を保ったまま、
 まるで「丸太ん棒」のように
 全く動けなくなり、さらには
 呼吸も、話すこともできなくなり
 治療法は未だほとんど無い・・・
 そんな不治の病に冒されたとき、
 人は・・・

 これは看護学生であり病院で働く私が垣間見た、病を得ながらも生き続ける人々の記録です。('94 秋)


冷たいゼリー

 私が病院で働き始めたのは、19の夏も終わりの頃でした。その頃私は全日制高校を中退した後、喫茶店で働きながら通信制高校で勉強していましたが、卒業・進学を前に、その頃トピックスとなりつつあった「看護」に興味を持ち、その実態を体験しようと思い、病院で働いてみることにしたのでした。
私が折り込み求人募集紙の「看護助手求む」の求人に応募し採用されたのは、横浜市戸塚区の国道1号線に面した、開院1年足らずのベッド数200のN病院でした。N病院は「患者中心の医療」を理念に、看護体制も整えられた先進的な病院でした。そこで私は中央材料室に配属されたのでした。
 中央材料室とは、病院で使うメスなどの医療器械やガーゼなどの衛生材料を集中管理・消毒する部署です。一応看護部の管轄であり看護婦が勤務しているのですが、患者との関わりはありません。それでは「看護の実態を体験する」という目的は達せられないので、土曜日の午後だけ半日、中材の業務が終わった後に、病棟に勤務させてもらうことにしたのでした。
 私が半日働くことになったのは、最上階の5階病棟で、そこは内科と精神神経科の混合病棟でした。看護助手としての私の仕事は、ベッドサイドの簡単な掃除や物品・設備の整備でしたが、はっきり言って土曜日の午後は大して仕事は無いようで、少々暇を持て余し気味でした。そんなある日、忘れ得ぬ二人の患者に出会ったのでした。

 その日は晴れた天気の良い日でした。私は年配の看護婦について、ある病室に入っていきました。そこにはIさんとNさんという二人の患者がベッドに横たわっていました。
 看護婦がまず近づいていったのは、窓際のIさんでした。年の頃は30ほどでしょうか、色白でやせ細り、手足は棒のように細く、固くなっていました。それが、私が初めて出会った、 神経難病 の患者でした。  私がどうすれば良いか分からず立っていると、患者の体位交換−−−自力で動けない患者に寝返りをさせること−−−をしていた看護婦が、
「手をこう、ゆっくり動かしてあげて」と、Iさんの手を私に持たせました。その手は運動神経の機能喪失によって動かせない為に、筋肉がすっかり萎縮して無くなり、関節が固くなって、始めは全く動きませんでした。確か、「楽にしてください、手を動かしますよ」と、声を掛けたように思います。するとゆっくり、手が動いてきたのでした。
「心を許すと、動くのよ」
 初老の看護婦はそう言いました。私が初めて、「看護」を肌に感じた瞬間でした。
 私たちは固くなった体をゆっくり解きほぐしながら、Iさんの体位交換をすませました。自力で動けない患者は、ベッドにあたっている部分が圧迫されて血液循環が悪くなり、褥創−−−とこずれ・皮膚やその下の組織が血行不良で破壊されて崩れてくる、クレーター状の潰瘍−−−ができてしまいます。それを予防するため、定期的に体の向きを変えなければならないのです。
 その時、彼がアァァ・・・と、声にならない声を上げました。もはや全身の筋肉が自由に動かせず、話すこと、口を動かすこともできなくなった彼には、呻き声しか発することができなかったのでした。そしてベッドを離れようとする私たちを、僅かに動く首をゆっくりと回し、うつろな、しかし何か物言いたげな視線を投げかけてきました。
「何が悲しくて泣いてるのよ・・・」
 看護婦は言いました。
 そう、何が悲しくて、Iさんは泣いていたのでしょうか・・・
 健康であれば、職場の最前線で忙しく働いていたことでしょう。たまの休みには、海辺のドライブやテニスや、酒を楽しむこともあったでしょう。胸のときめく恋の一つ二つもあったでしょう。 しかし・・・ それらすべては、Iさんにとってはもはや夢でしかないのでした。それどころか、今は自分の意志を伝えることさえもできず、ただ時間毎に体を転がされているだけの、「生きた丸太ん棒」なのです。話すことも、体を動かすこともできない・・・ それは人にとって、どんな体験なのでしょうか?
「話せないから、自分の言いたいことも言えないから、悲しいんじゃないかな・・・」
 私はそう思いました。
 しかし、いつまでもそこに立ち止まっている訳にはいきません。私たちが一旦ナースステーションに戻ってから、看護婦は、
「Iさんの隣のベッドのNさんに、ゼリーを食べさせてあげてもらえる? それから、爪が伸びてると思うから、切っておいて」と言って、私に爪切りを渡しました。
 私は再びさっきの病室に戻り、今度はNさんのベッドサイドに行きました。

 NさんはIさんと比べて大柄で、坊主頭の老人でした。つぶらな可愛らしい目をしていて、静かに横たわる姿は、不治の病に冒されているようには見えませんでした。しかし、その喉には短いプラスチックの管−−−気管カニューレが突き出していました。気管切開をされていたのです。
 気管切開とは、呼吸機能が低下したときに呼吸を楽にするため、喉仏の下の気管に穴を開けて直径1cmほどの管を入れ、肺に最短径路で空気が入るようにするものです。気管切開をすれば呼吸は楽になり、容体が悪化すればすぐに呼吸器を付けることもでき、相当な延命ができます。しかし、声を作る声帯を息が通らなくなるため、命の代償として、声を失ってしまうのです。Nさんも呼吸筋群にまで麻痺が及び、呼吸が苦しくなって、気管切開したのでしょう。もちろん、もはや話すことはできなくなっていました。
「ゼリー食べましょうか」
 私が問い掛けると、Nさんは嬉しそうな目で私を見るのでした。私はベッドの傍らの小さな冷蔵庫からカップのゼリーを取り出し、椅子に座りました。そして、柔らかく揺れるゼリーを小さなスプーンですくっては、Nさんの口に運ぶのでした。
「おいしいですか?」
 そう尋ねるとNさんは、それは嬉しそうに微笑むのでした。
 僅かばかりのゼリーを食べることなど、普通の健康な人にとってはどうということもないことです。しかし、体が全く動かせない患者にとって「食べること」は、単調な「寝ているだけ」の毎日の中で、数少ない楽しみであり、生きがいなのでしょう。その食べ物さえ、病状の進行に伴って、普通の食べ物から刻んだ物に、次はミキサーで原形を留めない物に、そして噛むこと飲み込むことができなくなると、どろどろした粉を溶いたような流動食になってしまいます。そのとき、すでに体が全く動かない患者は、一体どんな喜びや楽しみがあるのでしょう・・・
 その夜、私の脳裏には、Nさんの嬉しそうな目と、Iさんの物言いたげな目が焼き付き、なかなか寝付けませんでした。

 数日後−−− 私の机の上には、電子工学の入門書と電子部品、そして安物のパソコンが散らばっていたのでした。
 神経難病によって体の自由や言葉を失い、そのために人として生きるささやかな喜びさえも失った人達が、言葉だけでも取り戻せるように−−− 私は彼らの 残された運動機能でも操作でき、言葉を伝えられる特殊なワープロ を作ろうと考えたのでした。
 それから−−− 私とパソコンと電子工学、三つどもえの格闘が始まったのでした。
1990年の秋のことでした。

nurce caping

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