飛び立たないでスイートピー

 93年秋のある夜のことでした。私が病院のアルバイトを終え、10時過ぎにアパートに帰ってくると、留守番電話にメッセージが入っていたのでした。通信制高校の同級生だったIさんからでした。
 それは悲しい知らせでした。
「Sちゃんが、今朝亡くなって・・・」
 テープから流れる彼女の声は、同級生だったSちゃんが、戻らぬ旅路に発ったことを伝えたのでした。
 私はすぐに、何ヶ所かに電話をかけたのでした。そして一段落してから−−− 床にぺたりと座り込んでしまったのでした。
 初めてのことでした。  それぞれの困難を乗り越え共に学んだ、まだ若い仲間を失うことは、衝撃でした。
 白い電話を前にして−−− しばらく思考は、停止した時間を漂っていたのでした。 そのうちに、それは頭の中をぐるぐると、廻り始めたのでした。
 Sちゃんが元気に、日曜の登校日に学校に来ていたとき、もっとたくさん、話していれば良かった−−−
 Sちゃんが心臓発作で倒れて入院していた時、もっとお見舞いに行ってあげれば良かった−−−
 お見舞いの帰り道、「Sちゃんがすき」と打ち明けてくれたF君。結局、二人に何もしてあげずに終わってしまった−−−
 看護職を目指す私なのに、Sちゃんに何もしてあげなかった−−−
 Sちゃん、ゴメン。
 −−−−−−−−−−−−
 思いはとめどもなく、妙に冴えた脳裏を廻り巡り−−− そしていつか、私は深い眠りの淵に沈んでいったのでした。

 Sちゃんは、1つ年上の、ちょっとおしゃれな女の子でした。確か先天性の−−−心臓病のため、普通高校に通うのは身体的に厳しく、通信制高校に通っていたのです。彼女は目立つほど活発でもなく、私はあまり話しかけたことは無かったのですが、不思議に存在感の大きな人でした。
 彼女は、詩を書くのが好きでした。
 いつだったか、彼女の詩が化粧品のイメージ・ポエムに選ばれたことがありました。誰かが、雑誌に載ったそれをコピーして配ってくれて、クラスの皆で読んだ記憶があります。ちょっと胸がきゅーん、とする、優しい詩でした。天はSちゃんから健康と「普通の女の子」としての青春を奪いましたが、その代わりに繊細な感性と才能を与えたのでした。

 私たちの学校は、横浜駅から程近い、歴史のあるY高校の中にありました。正確に言えば、一つの校舎を平日は全日制、休日は通信制というように使っていたのです。通信制高校はその名の通り、通信添削が学習の中心になります。しかし、体育や実験などの実技や添削に先立っての授業のため、休日に「スクーリング」と呼ぶ普通の型式の授業を行うのです。そしてこのスクーリングに出席することは、卒業の必須条件なのでした。
 ところで、Sちゃんのような心臓病の人には、病状ごとに厳しい運動制限があります。運動すると全身が普段より多くの酸素を必要とするので、酸素を供給するために、心臓は余計に働かなければなりません。しかし心臓病の場合、心臓は必要な酸素を送れるだけ働くことができないので、体は酸欠に陥り、生命の危険を招くからです。彼女の場合、体育などはもちろん禁止で、坂道などを歩くこともあまりできないようでした。その運動制限のために、普通高校へ毎日通学することは難しかった訳ですが、2週間に一度程度のスクーリングなら、なんとか大丈夫だったようでした。Sちゃんの家から学校までは、駅の階段以外は平地だったことも幸いしたでしょう。 私が全日制高校を1年で中退し、通信制高校2年に編入してから2年程の間に−−−Sちゃんはかなり体力を付けたようで、3年の秋には皆と一緒に就学旅行に行けるほど、元気になっていたのでした。

 就学旅行は倉敷と京都でした。それぞれ仕事などの都合をつけて集まったのは、50人ほどだったと思います。さすがに京都・嵯峨野辺りの山道を歩くことはできませんでしたが、Sちゃんも随分楽しんだことでしょう。1日目の朝、寝台列車で瀬戸大橋を渡り、朝食後にバスでとんぼ返りして倉敷へ向かう途中で撮った−−−大橋をバックにした記念写真の中のSちゃんは、「元気な」Sちゃんでした。
 しかし4年になったとき−−−校舎は立て替えのために、山の上に移転してしまいました。そして駅から校舎まで続く長く険しい坂道は、Sちゃんの登校を拒んだのでした。
それからSちゃんには、確か会えなかったと思います。そして、再びSちゃんに会えたのは−−−病院ででした。

 確か、私が大学2年の秋口のことでした。その頃、通信制高校を卒業し、推薦で相模原にある大学の看護学部に進学した私は、アルバイトや「神経難病患者でも使えるワープロ」の開発作業にいそしんでいたのでした。たまにクラス会があったりして、ふとSちゃんのことが気になったりもしました。しかし、「便りが無いのは良い知らせ」と勝手に思い込み、いつしかSちゃんのことをほとんど忘れていたのでした。

 そんな時、誰からだったか、電話がかかってきたのでした。
「Sちゃんが発作で倒れて、入院したんだけど−−−みんなでお見舞いにいかない?」
 関内・伊勢佐木町から程近いS病院に集まったのは、3人か4人だったと思います。まだ暑い晴れた午後遅くのことでした。
 病室のSちゃんは、見る影もなくやつれていました。そして口からは、呼吸管理のための気管内挿管のパイプが飛び出し、乾いた血がこびりついていたのでした。
 挿管されていては、話すことはできません。「回復への意欲を持たせるために刺激が必要なので、話掛けてあげてください」と看護婦に言われていた私たちは、色々とSちゃんに話掛けるのでした。しかし、励ましの言葉は空しく宙に響くばかりなのでした。そして横向きに寝かされたSちゃんは、悲し気な目を白いシーツに落とすのでした。
 私たちはどうしようもなく、後ろ髪を引かれる思いで病室を去ったのでした。
 F君との帰り道、二人は言葉少なに、地下街の小さな和食屋で刺身定食をつついたのでした。しかし、冷たいビールも、その日はただの苦い水でしかなかったのでした。

 Sちゃんの告別式の日も、気持ちのいい秋晴れでした。
「Sは晴れ女なんですよ」と、お母様は言いました。
 確かにそうでした。Sちゃんがいた時はいつも晴れでした。そして今日も晴れ−−−
 ガラスのように透明に澄んだ秋の空のような、繊細な心と体を持ったSちゃんは、遂に砕けて散ってしまったのでした。

 それからしばらくした、秋も終わりのある日−−− 私は思い立って、Sちゃんのお墓参りに行ったのでした。アパートの近くのデパートで花を買って、迷ったあげくやっと菩提寺にたどり着いたときは、もう日が暮れてしまっていました。
 薄暗い中を、聞いた話を頼りにお墓を捜し当てるのは、思ったより簡単でした。そして私は、水と花を供えたのでした。
 まだ、信じられない気持ちでした。しかし確かに、Sちゃんはもういないのでした。目の前の墓標は、そのことを静かに、しかし決然と語るのでした。
 私はゆっくりと立ち上がりました。辺りはすっかり夜のとばりに包まれていました。
「バイバイ、Sちゃん」
 私はSちゃんに別れを告げたのでした。
『人が大切な人を失ったとき、その悲しみを克服するためには、別れの言葉を告げ、はっきりと永遠の別れを認識することが必要である・・・』
 授業で教わった「喪失理論」は、そう教えていました。
 人の死の場所が家庭から病院に移り、死が世間から覆い隠された現代の日本。しかし、それを避けることはできません。病に冒され死が現実に迫った時、残された命を有意義に生きるために、また残された者が先立った者の分までも生きるために−−−死から目を背けるのではなく、それをしっかり見据えることを考えることが、今、そしてこれからの日本には必要と痛いほどに感じるのでした。

 もう一度、私は墓標を振り返りました。
 夜のとばりの中に白いスイートピーが、まるで蝶のように舞っていました。
 23年の命を散らしたSちゃん。長くはなかったけれど、それは間違い無く、素敵なものだったと思うのです。今も、そしてこれからも、クラスの皆の思い出の中に生きているSちゃん。死してなお人の心の中に生きれることは、人としてとても幸せなことではないでしょうか・・・
 そうしてSちゃんは、夜空に飛び立つ白いスイートピーのように、私たちのもとから飛び立っていったのでした。

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