散華桜ひとひら

 古き良き、昭和初期。かつて、日本の家にはどの家にも、神棚が奉られていました。太陽の女神・天照大御神を筆頭に頂く、森羅万象を司るやおよろずの神々は、人々の暮らしの中に溶け込んでいたのです。そしてまた人も、その命の果てには神となって、神々と森羅万象の中へ帰っていたのでした。
 私の家には今でも、一番良い和室に南に向けて、白木の神棚が奉ってあります。そして、私の親族から神になった者の中に、M伯父はいたのでした。

 五十余年前−−− 昭和16年冬、太平洋戦争が勃発し、多くの若者が戦場へと駆り出されて行きました。真珠湾、珊瑚海と、始め日本軍は破竹の勢いで勝ち進みました。しかし昭和17年のミッドウェー沖海戦で惨敗を喫し、それ以降は坂道を転がり落ちる石のように、救いの無い大消耗戦にはまっていったのです。各地で次々に兵士が銃弾に倒れ、それを補うため、家々には招集令状が届けられたのでした。
 招集令状−−− 通称「赤紙」と呼ばれたそれは、小さな薄紅色の、薄っぺらい紙切れでした。その頃の日本には徴兵制度があり、成年男子には兵役の義務がありました。男子は全員健康診断を受け、健康の度合ごとにランク分けされて、身体頑健な者から軍に徴兵されていったのです。とはいっても、後継ぎの長男は徴兵されない、などという話も有り、戦争初期はそれ程厳しいものでは無かったようでした。しかし、日本軍の兵力が消耗するにつれて、招集令状は相手を選ばず届くようになったのです。そしてある日、私の母方の伯父、M伯父にも赤紙が届いたのでした。

 私の母方の家は、会津若松の城下町にあります。M伯父はその長男として、大正の終わりに生まれたのでした。十人近い兄弟姉妹の頭として、また家業の後継ぎとして、期待されて育ったことでしょう。戦争が無ければ今頃は家業を継ぎ、会津の城下町で磐梯山を眺めながら暮らしていたはずです。しかし戦争の火の粉は、落ち着いた風情の城下町にも容赦無く襲い掛かって来たのでした。そして、M伯父は出征して行きました。
 その日は、一体どんな日だったのでしょうか・・・ 赤紙は、電報のように配達人が直接家人に手渡したものだ、と聞いたように覚えています。当時、軍に招集され兵士として戦地に赴くことは、「お国のため」に働ける名誉な事とされていました。「招集令状です」と、赤紙が届けられたとき−−−配達人は敬礼し「出征おめでとうございます」と、家人は「ありがとうございます」とでも言ったのでしょうか・・・ 二人の胸のうちは、どんなものだったのでしょう。出征の日、空は晴れていたのでしょうか・・・ 町の人々は、日の丸の小旗を振り、万歳を叫んだのでしょうか・・・ いずれにしても、M伯父がその日出征していったこと、そして再び磐梯山も若松城も見ることが無かったそのことは、確かな事なのです。

 戦争は、ますます熾烈さを極めていきました。人も、軍艦も、戦車も零戦も、次々と戦場に没していきました。陸軍に徴兵されたM伯父は各地を転戦し、最後にはフィリピンにいたと聞いています。フィリピンは太平洋戦争末期、日本軍が絶対国防圏と呼び石油資源の補給地として死守しようと、激戦を繰り広げた地です。昭和19年秋、米軍のレイテ島上陸を阻止しようとした戦艦大和以下の艦隊が敗退し、フィリピン一帯は米軍の勢力下に入りました。それから後、取り残された陸軍部隊は、救いの無い孤立無援の戦いの泥沼に溺れていったのでした。

 昭和二十年−−− 私の祖母は、M伯父の戦死公報と位牌と骨壺を受け取りました。位牌に記されたM伯父の命日は、昭和二十年一月四日−−− M伯父は故郷で正月を迎えること無く、遥か南洋の密林に、22歳の命を散らしたのでした。そして祖母の胸に抱かれた骨壺には、一握りの白い砂だけが、さらさらと音を立てていたのでした。

 平成六年八月十五日、終戦の日−−− 私たち家族三人は、東京九段の靖国神社を訪れていました。神々の世界に帰っていったM伯父は、戦友達と共にそこに奉られているのです。熱帯のような焼き付ける陽差しの中、戦場の華と散った戦友を弔う人の群れは、今も尽きてはいませんでした。
 境内の木陰には、鳩の群れがそこかしこに歩いていました。平和の鳥とされるその鳩たちが、二度と戦火を見ることなど無いように−−− 私の脳裏には、母の家の鴨居にかかる、額の写真の丸い眼鏡の、M伯父の顔が浮かんでいました。私よりも若くして、現世と訣別したM伯父。国のためと信じてか、家族を友を守るためか−−− 理由はどうあれ幾百万の若者達が、大海原に、碧空に、密林に、散華していったのでした。彼らの犠牲も空しく戦いは敗北に終わりましたが、それによって日本はファシズムの狂気から開放され、民主主義と自由を学ぶ事ができました。現在の平和と繁栄を飽食する日本は、彼らの命と引き換えに生まれたと言えるでしょう。死して新しい日本を産み出した彼らの命は、短い命を限りに咲き誇る桜のように、短くとも美しく燃え尽き、次代の礎となったのです。

 今、靖国神社と遺族会は、戦争責任を認め諸国に謝罪する国会決議の提案を、戦死者を冒涜するものとして反対運動をしています。謝罪すれば、戦死者が殺人者・破壊者とされてしまうと思っての事なのでしょう。しかし、それは違うと思うのです。戦争を始めたのは軍部であり時の政府であり、時代の流れでもありました。戦死者たちは、ただ祖国と彼らが愛する者たちを守ろうと、純粋な気持ちで戦いに赴いたはずです。その彼らに、何の責任や罪があると言うのでしょう。むしろ、国が過去の過ちを認め謝罪することが、戦争責任の所在を明らかにし、戦死者たちの名誉を守ることになると、私は思うのです。愛する者たちを守るため、敢えて散った尊い命たち−−− 戦争の記憶と痛みが風化しつつある今こそ、彼らが命を賭して私たちに伝えた事を、忘れてはならないのです。

 八月十五日、終戦の日−−− 願わくばその日が、すべての戦いが永遠に終わる日になりますように−−−

(1994年夏)

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